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開催日時: 2004年04月24日(土曜日)13:00〜17:00
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実り多い講演でした。
漁協、定置網、損保会社、保安庁、地検、簡易裁判所、海難審判庁、刑法129条第2項「業務上過失往来危険」等々の実態、相互関係、運用の実際、が大変クリアになりました。
我々の常識では考えられないような刑法の存在、人間や組織の行動が明らかになって、目からうろこの連続でした。事務局子もこの講演のおかげで、人間社会を生き抜いていくための武器をひとつ手に入れたような気分です。
刑事関係は本来の講演として拝聴しました。資料も適切なものを適宜いただきました。
民事関係は、講演終了後に個人レベルでお話を伺いました。資料は配布されなかったので、これも個人レベルで閲覧させていただきました。懇親会の時間であるにもかかわらず、会場のそちらこちらで資料閲覧に没頭する会員の姿が印象に残りました。
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氏は定置網に乗り上げて損害賠償を請求されました。
普通はこの時点で損害保険会社が登場して諸問題を解決するようですが、
小林さんはその解決法には納得がいかなかったようです。
また示談にして不起訴という方法もあったようですが、
この種の妥協を拒んで海難審判にまで臨み、それなりの成果を得ました。
事故の発生から、海上保安庁、海難審判、損害賠償保険関係、
等々とひととおりの体験をされた氏の、
普通ではできない貴重な経験をお聞きして、
その経験の何分の一かでも自分自身の物にしたいという思いから、
講演をお願いしました。見方によっては単なる失敗談でしょうが、
受け止める人によっては気骨あるヨットマンの闘争の記録でもあります。
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講演内容:
@事故のあらまし
@海難審判の実際
@ヨットの損害賠償保険の内容としくみ
@海上の障害物について
@その他
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講師の自己紹介:
昭和3年生まれ
昭和27年 慶応義塾大学経済学部卒業
同年 日新火災海上保険株式会社入社
昭和62年 定年退職
サラリーマン時代は船舶保険を担当し、
座礁現場や造船所を駆け回っていたので、
ヨットを離れていても潮気を保つことが出来ました。
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講師のヨット歴:
昭和20年の秋、敗戦により海軍兵学校から帰ってきた3歳年上の兄と、知人のヨットを借りて、毎日のように江ノ島沖を帆走したのが初体験でした。昭和25年、舵誌に載っていた横山晃氏設計のスパロー級デインギーを、東大船舶工学科を卒業し造船技師になっていた兄と自作、「ロシナンテ」と命名して、湘南の海を走り回りましたが、驢馬のように気まぐれで、江ノ島から葉山へは一日がかり、帰りは一時間という有様でした。
昭和26年、海商法研究を目的とする海洋研究会に入会、夏季合宿に「ロシナンテ」を持ち込んだところ全員がヨットに目覚め、いつの間にか会の名称も、慶応マリンヨットクラブに変わり、50年後の今も、学生たちがファイアーボール級デインギーのレースに若き血を燃やしています。
クルーザーに乗ったのは昭和29年に米国人フェッタース氏の「羽衣」のクルーとして、レースに参加したのが最初です。「羽衣」は26フィートのヨ−ルでしたが、船名に背く鈍重なヨットで、参加したレースは全てタイムリミットオーバーによるDNFでした。同年夏の横浜、館山往復レースでは、「羽衣」が館山のマークに到達したときには、我々を除く全艇が新山下沖のゴールラインを通過し、レースは終了していました。心配した巡視艇が駆けつけ、曳航を申し出てくれましたが健気に謝絶、彼女が了解,回頭して増速した途端にハリヤードが切れてメインが落下、フェッタースと二人で鬼界が島の俊寛僧都よろしく、声を限りに、呼び戻そうとしましたが届かず、そのまま行ってしまいました。エンジンも無く、小さなジブとミズンで新山下沖に辿りついたのは、レース終了から24時間後のことでした。私が去って間もなく、同船は遭難しましたが、全員無事であったことを知り、「羽衣」はやはり天女の化身であったと感じ入りました。
現在乗っている「海王V」は、船齢23歳のニッサン30で、立派な船名の由来は、30年ほど昔、航海練習船「海王丸」の救命艇の払い下げを受け、「海王」と命名したことに因んだもので、現在は三代目です。本家の「海王丸」は伏木港で静かに余生を送っているそうですが、「海王V」は、湘南の海で、学生たちを乗せ、練習船の真似事をしながら元気に働いています。
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